八雲展と私
猪飼 勝
(旧制都立高校 理25卒)
旧制高校について
旧制府立高校は、高校に付属した中学(尋常科と称した)がある当時としては数少ない中高一貫教育を受ける生徒を含む高校でした。高校のクラスは、こうした生徒と一般の中学卒業生を選抜した新入生で編成されました。一例として昭和25年卒業の第19回生理科1組の場合を挙げれば、1クラス37名中9名が尋常科出身でした。
旧制高校についての解説は、いろいろあるかと思いますが、旧帝国大学卒業生で構成される学士会の会報に英国パブリック・スクールと対比して、制度や当時の社会における位置などまとめた文章があるので、これから抜粋し一部加筆しています。詳しくは「学歴貴族の栄光と挫折」講談社学術文庫 竹内洋をご一読ください。
明治19年の中学校令によって全国に第一から第五までの高等中学校が設置されたことからスタートして、明治27年に高等学校と改称され、最終的には、大学予科を含め38校になり、卒業生は、21万人になります。旧制高等学校は、男子だけの学校でしたが、昭和23年頃には、新潟高校や山形高校などで女性の入学者がいました。中学校から旧制高校への進学状況は年度によって異なりますが、男子の0.3パーセントから0.7パーセントです。特徴は、厳密な能力主義による選抜でした。
大正時代に創立されることになった武蔵、甲南、成城、成蹊など私立の、府立や浪速などの公立は、パブリックスクールをモデルにしていますが、これ以外は官立でした。
明治時代の旧制高校には、めざすべき人間像が明確で、勤倹尚武とか武士道精神を重んじる気風がありました。ところが、日本の近代化に対応するエリートを養成する時代の要求もあって、武士道精神は希釈されて洋風インテリ製造工場化していきます。旧制高校エリートの死角は伝統文化と庶民でした。
旧制高校は、昭和25年に廃止になりましたが、日本人自身がそういうものはいらないと考えたのかどうか、清算しないで終わらせてしまった感は否めません。デモクラシー社会にあっても、指導者やエリートは必要なわけですから、デモクラシー社会でのエリート教育はいかにあるべきか、あるいはそんなものは必要ないと考えるのか。
旧制高校といえば、「栄華の巷低く見て」式の、ナンバースクールのイメージが強いのですが、大正時代にできた七年制高校は、かなりリベラルな学校だったのですから、民主社会のエリート教育という点では、七年制高等学校や地方校を再考すべきかと思います。
府立高校は「東洋のイートンスクール」を唱えていました。 旧制高等学校は、今日の学校が忘れている青春と友情の空間であったということも大事なところです。
出典(旧制高校とパブリック・スクール--日英エリート教育の比較--竹内洋 学士会会報No.818 1998-1)
八雲展のはじまりと私の参加」について
1950年代に戦後の混乱から経済成長を始めた日本では、あらゆる文化活動がさまざまな分野で繰り広げられるようになりました。絵画の分野では文化人が、ホビーとして絵でも描こうや、とチャーチル会の展覧会を1949年に開催する。企業でも労働組合対策の一環として、社内での絵画同好会の活動を助成するようになっていました
こうした流れの中で、戦前から続けていた東京高校のグループ展を目にした喜多智慧夫氏(26理科)は所属公募団体の先輩平部正博氏(16年理甲)に都立でもやろうと働きかけ、尋常科出身の平部氏は、尋常科で絵画部をまとめていた内野滋雄氏(26尋4A)と共に、八雲展の企画を発足させました。
このようにして、第一回展は内野氏の縁故により日本橋東急で開催しました。 第一回展の芳名録第一ぺージは、岡 弘(15理乙)岡本半三(19文乙、絵画研修フランス留学生)平部正博(上記)辻野典代(大調和会役員、平部氏の同僚)が記帳されています。第一回展時点の会員名簿は、別紙のとおりです。
私は、第2回展前に内野氏から案内の私信をいただき、参加することになりました。出品を続ける間に、潮恒郎 氏(18裡乙)と事務局のお手伝いもさせていただきました。
こうしたなかで、会の存続についてどのように考えるのか幹事の中で話題になりました。そこで、付属高校の後輩の参加をはかり、あわせて旧制高校の教員の一部が都立大学へ移籍したことを理由に、同大学も旧制高校の延長線にあるとして同大学OBにも参加をよびかけることにして現在の状況になりました。
その後私は当展に出品すると並行して、かつて3名の先輩後輩が所属した大調和会を大作発表の場に選びこの会員になり、日本美術家連盟の会員にもなって、制作に没頭しています。